登校班での徒歩通学というのは、それまでの保育園へのバス通園とは一線を画するもので、小学校入学という新しい世界へ入ったことを示す象徴的な変化のひとつである。それゆえ期待に胸を膨らませていたはずなのだが、一年生のときの登校班には残念ながら地獄のような思い出しかない。
班長はKくんという五年生だった。この班長がとにかく怖かった。道の途中で友達に会えば話し込んで先にどんどん進んでしまい、すぐ後ろを歩いていた一年生の僕は遅れをとってしまう。すると班長は振り返り、「遅えんだよ!」と怒鳴りつける。とにかく通学中の無駄話は許されない。後ろの方にいる四年生のMさんだけはいつも誰かと喋っていた。
当時、国語の教材を暗記して、体育館のステージでクラス単位で発表するという学校行事があった。確か「暗唱発表会」とか言ったと思う。その後ラジオ業界に入ることになる山崎少年は、国語の朗読がとても好きだった。一年生のときだったと思うのだが、僕らのグループは詩の暗唱を発表した。湯気で曇ったお風呂の窓に指で描いた家族の似顔絵が、滴ってだんだん崩れていく様子をしたためた詩のような記憶があるが、違っているかも知れない。僕は身を乗り出しながら大きな声で暗唱し、練習の場で先生に褒められたのだろう、体育館での本番では、練習以上に身を乗り出しながら、口を大きく開けて元気に暗唱した。
翌朝である。僕の体を張った暗唱は、班長にけちょんけちょんにバカにされた。面と向かっても言われたし、班のメンバーみんなに向かっても僕の暗唱のおかしさは報告されて嘲笑の対象となった。また、班長は彼の友達に、僕のモノマネまでしてみせた。本当に辛かった。とはいえ、それ以降人前で発表することが怖くてできなくなった、みたいな話はとくにないのだが。
あるとき、班長が欠席の日があった。先頭には彼の代わりにおしゃべり好きな四年生のMさんが立った。僕はそれまでの緊張の糸が切れたように、誰とも構わずテンション高く喋りまくった。「僕は天才だ」みたいなことも調子に乗って言ったような気もする。Kくんが班長をつとめた二年間のうち、最も楽しい朝がこの日であった。
しかしその翌日、今度は二年間で最も辛い朝を迎えることになった。復帰した班長は、自身が不在だった前日の僕の様子を、Mさんに逐一報告させたのである。そこでのMさんは、前日に僕との楽しい話に付き合ってくれたお姉さんでなかった。僕がいかにうるさかったかを班長に伝え、もちろん「僕は天才だ」発言についても言及した。Mさんの裏切ったような行動には恐怖を覚えたが、それでも一件の報告ごとにひきつった表情を見せる班長の顔はもっと怖かった。振り向きざまのこの目つきだけは、今でも目をつぶれば思い出す。
当時は通学学区ごとに担当の教師がつく仕組みだったが、この二年間の恐怖の通学に、教師が介入してきた記憶がない。かろうじて、うちの親が何かしら対処したことをかすかに覚えている気がするが、それは後から聞かされたことかも知れない。ちなみにその数年後、僕が班長になったとき、K班長を反面教師としていたことは確かだ。その後現在まで続く、僕の先輩嫌いで後輩好きな性格は、登校班でのこの経験で培われたのかも知れない。
大宮町立上野小学校、茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、慶應義塾大学環境情報学部。学校の「記憶」に関心をもっている筆者が、学んできた教育社会学・社会心理学の知見を活用しながら、自分自身の学校体験で起きた私的な出来事を振り返り、綴っていきます。
2014年1月21日火曜日
2014年1月20日月曜日
秩序をもたらす「びんた」の言葉
小学一年生の頃の教室の風景を思い出せば、今なら「ADHD」とでも呼ばれるのであろう友達がゴロゴロいたことにすぐ気付く。僕のクラスにも授業中に教室内を自由に歩き回っていた同級生は何人かいて、その名前も顔もちゃんと思い出せる。ただ、そういう同級生に向けた自分のまなざしがどんなものだったかは覚えていない。少なくとも「自分とは違う変な人たち」と感じていたわけではなかったが。
そんな1年1組の教室に秩序をもたらしていた言葉がある。
「びんた」
これは僕にとって恐ろしい響きをもつ言葉だった。もちろん、僕だって親からびんたを食らったことは何度もあった。ただ、父も母もそれを「びんた」とは呼ばず、「ひっぱたく」と言っていた。田崎先生の口から発せられる「びんた」という言葉は、親の「ひっぱたく」という行為の10倍ぐらいのエネルギーをもっているように僕には聞こえていたのだと思う。
「思う」と書いたように、僕自身は修了式の日まで田崎先生の「びんた」を食らうことはなかった。それどころか、実際に誰かがされている現場を見たこともなかった。「びんた」はみんながいる教室では行われないのだ。
じゃあどこでなされるかというと、カーペット敷きのオープンスペースといわれる空間である。教室からは図工の道具やピアニカを収納した棚によって隔てられているこの部屋へ、授業中あまりに言うことをきかない友達は連れていかれる。そのちょっとの時間、先生と友達のいなくなった教室で、僕たちはじっとしていた。目隠しとなっている棚をこえてその様子を見ることはなぜか憚られた。「見るな」とは言われてなかったと思うが、誰も見ようとしなかった。ただ、誰かがひそひそ声で、「今、パーンって音した!」とか言ったりはする。
そんな具合なので、果たして本当に「びんた」がされていたのかどうかは未だにわからない。田崎先生は、この「びんた」という言葉だけで、現実の行動を伴わせることなく、秩序をつくっていたかも知れない。
ただ、半べそをかいて教室に戻ってくる友達の様子と、そのときだけ見せる微妙な表情をした田崎先生の顔は、今でも脳裏に焼きついている。
そんな1年1組の教室に秩序をもたらしていた言葉がある。
「びんた」
これは僕にとって恐ろしい響きをもつ言葉だった。もちろん、僕だって親からびんたを食らったことは何度もあった。ただ、父も母もそれを「びんた」とは呼ばず、「ひっぱたく」と言っていた。田崎先生の口から発せられる「びんた」という言葉は、親の「ひっぱたく」という行為の10倍ぐらいのエネルギーをもっているように僕には聞こえていたのだと思う。
「思う」と書いたように、僕自身は修了式の日まで田崎先生の「びんた」を食らうことはなかった。それどころか、実際に誰かがされている現場を見たこともなかった。「びんた」はみんながいる教室では行われないのだ。
じゃあどこでなされるかというと、カーペット敷きのオープンスペースといわれる空間である。教室からは図工の道具やピアニカを収納した棚によって隔てられているこの部屋へ、授業中あまりに言うことをきかない友達は連れていかれる。そのちょっとの時間、先生と友達のいなくなった教室で、僕たちはじっとしていた。目隠しとなっている棚をこえてその様子を見ることはなぜか憚られた。「見るな」とは言われてなかったと思うが、誰も見ようとしなかった。ただ、誰かがひそひそ声で、「今、パーンって音した!」とか言ったりはする。
そんな具合なので、果たして本当に「びんた」がされていたのかどうかは未だにわからない。田崎先生は、この「びんた」という言葉だけで、現実の行動を伴わせることなく、秩序をつくっていたかも知れない。
ただ、半べそをかいて教室に戻ってくる友達の様子と、そのときだけ見せる微妙な表情をした田崎先生の顔は、今でも脳裏に焼きついている。
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