このブログは、僕自身の学校体験のある部分を振り返り、そのとき何を思っていたのか、そして今その出来事をどう捉えるのか、それをできるだけ詳細に書き綴るものである。
現在、仕事をする傍ら、学生として学校教育についての研究をしている。研究のテーマは「『学校観の脱構築』実践の研究―子どものネガティヴな戦略的適応を超えるナラティヴ・アプローチ」というもの。つまり、僕がもっとも関心をもっているのは、自分たちの「学校観」―「学校」をどんなものとして見て、記憶し、語るのか、という問題である。僕たちの「学校観」は、個人の学校体験だけをもとに作られるものではない。たとえば教室に机が並ぶ均質なイメージ、僕たちはそれを学校に行く前から知っていたのではないか。だとすれば、「学校観」は経験に先行して存在し、経験の内容を規定し、そしてその経験と「学校観」が相互作用しながらつくられていく。そして現在の地点からその経験を振り返ろうとするとき、現時点で抱く「学校観」に引きずられるように自分の学校体験が想起され、自分の今の人生に位置づけられ、場合によっては他の人と共有される。
仮説的なこの前提のもと、「学校観」の問題にできる限り当事者性をもって接近する方法があるとすれば、それは僕自身が自分の中の学校の記憶を辿り、そこであったことを書くことを通じて、当時考えていたことを思い出し、さらに今生きている自分の地点から評価する、あるいはそう評価する自分をも相対化してみる―そういう具体的で私的な実践であると考えるようになった。こう書きながらも、大宮町立上野小学校、茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、慶應義塾大学環境情報学部…自分が人生の貴重な時間を過ごした学校での一こまが少しずつ思い出されてくる。それらの多くは他の人にとっては、あるいは自分にとってさえ「些細」なものかも知れない。しかしだからこそ書いておくべきだとも思う。
根っからの筆不精なので、下手するとこの文章だけを書いたまま、しばらく放置される可能性もあるが、こうして宣言し、書く場を得たことをモチベーションに、「学校についての私的な記憶」という個人的な実践を始めよう。
学校感は経験から先行されるということですが,いわゆる「昔は…」とか「自分たちの頃は…」という話が語られることからもわかります。
返信削除また,マスコミの影響も大きいと思います。
そして,それらがどのようにして内に入り,どの方向に作用されるのか…状況にもよるでしょう。
広い範囲で考えられるテーマかもしれません(^^
>tobishanさん
返信削除「自分たちの頃は…」という語りは、現場では厄介になることもあるのでは?と思ってしまいます。これからいろいろ書いていきますので、ぜひご意見聴かせてください!