2014年1月21日火曜日

地獄の登校班

登校班での徒歩通学というのは、それまでの保育園へのバス通園とは一線を画するもので、小学校入学という新しい世界へ入ったことを示す象徴的な変化のひとつである。それゆえ期待に胸を膨らませていたはずなのだが、一年生のときの登校班には残念ながら地獄のような思い出しかない。

班長はKくんという五年生だった。この班長がとにかく怖かった。道の途中で友達に会えば話し込んで先にどんどん進んでしまい、すぐ後ろを歩いていた一年生の僕は遅れをとってしまう。すると班長は振り返り、「遅えんだよ!」と怒鳴りつける。とにかく通学中の無駄話は許されない。後ろの方にいる四年生のMさんだけはいつも誰かと喋っていた。

当時、国語の教材を暗記して、体育館のステージでクラス単位で発表するという学校行事があった。確か「暗唱発表会」とか言ったと思う。その後ラジオ業界に入ることになる山崎少年は、国語の朗読がとても好きだった。一年生のときだったと思うのだが、僕らのグループは詩の暗唱を発表した。湯気で曇ったお風呂の窓に指で描いた家族の似顔絵が、滴ってだんだん崩れていく様子をしたためた詩のような記憶があるが、違っているかも知れない。僕は身を乗り出しながら大きな声で暗唱し、練習の場で先生に褒められたのだろう、体育館での本番では、練習以上に身を乗り出しながら、口を大きく開けて元気に暗唱した。

翌朝である。僕の体を張った暗唱は、班長にけちょんけちょんにバカにされた。面と向かっても言われたし、班のメンバーみんなに向かっても僕の暗唱のおかしさは報告されて嘲笑の対象となった。また、班長は彼の友達に、僕のモノマネまでしてみせた。本当に辛かった。とはいえ、それ以降人前で発表することが怖くてできなくなった、みたいな話はとくにないのだが。

あるとき、班長が欠席の日があった。先頭には彼の代わりにおしゃべり好きな四年生のMさんが立った。僕はそれまでの緊張の糸が切れたように、誰とも構わずテンション高く喋りまくった。「僕は天才だ」みたいなことも調子に乗って言ったような気もする。Kくんが班長をつとめた二年間のうち、最も楽しい朝がこの日であった。

しかしその翌日、今度は二年間で最も辛い朝を迎えることになった。復帰した班長は、自身が不在だった前日の僕の様子を、Mさんに逐一報告させたのである。そこでのMさんは、前日に僕との楽しい話に付き合ってくれたお姉さんでなかった。僕がいかにうるさかったかを班長に伝え、もちろん「僕は天才だ」発言についても言及した。Mさんの裏切ったような行動には恐怖を覚えたが、それでも一件の報告ごとにひきつった表情を見せる班長の顔はもっと怖かった。振り向きざまのこの目つきだけは、今でも目をつぶれば思い出す。

当時は通学学区ごとに担当の教師がつく仕組みだったが、この二年間の恐怖の通学に、教師が介入してきた記憶がない。かろうじて、うちの親が何かしら対処したことをかすかに覚えている気がするが、それは後から聞かされたことかも知れない。ちなみにその数年後、僕が班長になったとき、K班長を反面教師としていたことは確かだ。その後現在まで続く、僕の先輩嫌いで後輩好きな性格は、登校班でのこの経験で培われたのかも知れない。

2014年1月20日月曜日

秩序をもたらす「びんた」の言葉

小学一年生の頃の教室の風景を思い出せば、今なら「ADHD」とでも呼ばれるのであろう友達がゴロゴロいたことにすぐ気付く。僕のクラスにも授業中に教室内を自由に歩き回っていた同級生は何人かいて、その名前も顔もちゃんと思い出せる。ただ、そういう同級生に向けた自分のまなざしがどんなものだったかは覚えていない。少なくとも「自分とは違う変な人たち」と感じていたわけではなかったが。

そんな1年1組の教室に秩序をもたらしていた言葉がある。

「びんた」

これは僕にとって恐ろしい響きをもつ言葉だった。もちろん、僕だって親からびんたを食らったことは何度もあった。ただ、父も母もそれを「びんた」とは呼ばず、「ひっぱたく」と言っていた。田崎先生の口から発せられる「びんた」という言葉は、親の「ひっぱたく」という行為の10倍ぐらいのエネルギーをもっているように僕には聞こえていたのだと思う。
「思う」と書いたように、僕自身は修了式の日まで田崎先生の「びんた」を食らうことはなかった。それどころか、実際に誰かがされている現場を見たこともなかった。「びんた」はみんながいる教室では行われないのだ。
じゃあどこでなされるかというと、カーペット敷きのオープンスペースといわれる空間である。教室からは図工の道具やピアニカを収納した棚によって隔てられているこの部屋へ、授業中あまりに言うことをきかない友達は連れていかれる。そのちょっとの時間、先生と友達のいなくなった教室で、僕たちはじっとしていた。目隠しとなっている棚をこえてその様子を見ることはなぜか憚られた。「見るな」とは言われてなかったと思うが、誰も見ようとしなかった。ただ、誰かがひそひそ声で、「今、パーンって音した!」とか言ったりはする。

そんな具合なので、果たして本当に「びんた」がされていたのかどうかは未だにわからない。田崎先生は、この「びんた」という言葉だけで、現実の行動を伴わせることなく、秩序をつくっていたかも知れない。
ただ、半べそをかいて教室に戻ってくる友達の様子と、そのときだけ見せる微妙な表情をした田崎先生の顔は、今でも脳裏に焼きついている。

2012年1月2日月曜日

教室でうんこを漏らしたときのこと

今回は満を持して、うんこを漏らしたときのことを思い出して書きたいと思う。学校でうんこを漏らすという経験は、それが不登校の原因になりかねないという意味でも、その重大さを想像するのは難くない。でも僕は不登校にならなかった。あのときいったいどんなことがあったのか、周囲に聞いた話も参照しながら当時の出来事を記述したい。
未だに変わらないことだが、僕はお腹が弱い。すぐに下痢になってしまい、小さい頃からしょっちゅう腹痛に悩まされてきた。さすがに最近は頻度が減ったが、それはお腹が丈夫になったからというより、緊張することが少なくなったという心理的な成長(?)によるだろう。
あれは小学校に入学してからせいぜい1ヶ月ぐらいしか経っていない頃だと思う。午後の早い時間。いつものようにお腹が痛くなり、大便器で用を済ませ、すっきりしてドアを開けた途端、信じられないような悪夢が僕を襲った。今でも忘れずに覚えている。4年生の先輩たち、3人ぐらいか、ニヤニヤの表情を満面に浮かべたその顔が、「こいつ、うんこしてたよ」と言っていた。いやいや、表情が言っていただけでなく、それはきちんと音声となり、空気を振動させていた。「こいつ、うんこしてたよ」。こうして僕は、「学校でうんこをすることは恥ずかしいことである」ということを学習した。

おそらく、その事件からさらに1ヶ月後ぐらいの、4時間目の授業中だった。場所は1年1組、いつもの教室。お腹の中にたまった給食が、僕の体の中でいたずらをしはじめる。手と額に脂汗がにじむ。田崎先生や同級生の声もチョークが黒板を叩く音ももはや耳に入ってこない。自分の体と向き合い、祈るような気持ちで目をつぶる。世界が一瞬真っ暗になり、そしてまたすぐに光を取り戻した。

それから僕の中に残っている記憶といえば、近くの席の女子の「なんか臭くない?」という声と、お尻のまわりに感じた冷たさと、椅子に広がる茶色のドロドロ。それ以外は覚えていない。そして次の記憶といえば、もう先生か母親と話している場面。「どうしてトイレに行かなかったの?」と聞かれ、その理由を答えられないでいた不甲斐ない自分の姿である。
そして恐らく、翌日は普通に登校している。いじめられたような記憶もない。あっという間に日常が戻ってきた。

こんなことがどうして可能だったのだろう。それを考えることは、全国のうんこ漏らす小学生を救うことにもなるだろう。理由はいくつか考えられる。ひとつは、学校でうんこを漏らすということの事件性が、小学1年生という年齢では幼すぎて認識できなかった、という可能性。教室でうんこを漏らさない、というディシプリンが共有されていなかったのかも知れない。
しかし、物心ついたあとに母親が教えてくれたところによると、担任の田崎先生が、僕の体から出たものを「うんこ」ではなく「吐瀉物」(ゲロ)だとクラスメイトに説明し、処理してくれたとのことである。これが本当だとしたら、先生の巧みな応急処置に驚き、ただただ感謝するばかりだ。「子どもがうんこをもらしたときの対応マニュアル」みたいなものがあるのかどうかは知らないが、その後のことを考えたらそれが間違いなくベストな対応だった。
しかし、すべての同級生たちがこの「吐瀉物」説を信じたわけではないことが、なんと事件の3年後に分かる。それはもう「うんこ」のことなんて忘れていた小学4年生のときのある日の昼休み。校庭で遊んでいたら、同級生のF君から不意に、「昔、うんこ漏らしたよね?」と言われたのである。言われた瞬間、僕は奈落の底に突き落とされたような心持ちになった。どうしてF君はそのことを知っているんだろう、やっぱりあのとき、みんなは知っていたのだろうか?ついでにいえば、このF君、僕が学校のトイレの大便器の扉を開けて出くわした、ニヤニヤ顔の上級生の弟だった。だから余計に恐怖であり、今でも忘れないのだ。しかし、じゃあどうしてF君は、僕がもらした翌日にそのことを言ってこなかったのだろうか?あるいは実は言われたのだけれど、僕が覚えていないだけなのか?当時20代だった田崎先生の指導が、それだけ見事だったのか?

とにかく、この「うんこ」事件は僕の人生史にほとんど影を落とすことなく済んだ。うーん、もしかしたら、僕がこうして笑って話せるようになったのと同時に、嫌な記憶はすっきりと消去されたのかも知れない。田崎先生に会える機会があるなら、当時の対応についての感謝を伝えるとともに、実際に何が起こっていたのかをぜひ聞いてみたい(覚えていないと思うが…)。そしてもし僕が、うんこを漏らした子どもと出会ったなら、その対応を真似たいと思う。これこそ、文化の伝承というものだろう。

2011年12月2日金曜日

新しい教科書は宝物だった

年度が切り替わると新しい教科書が配られる。なんとなく覚えているのは、教科書センターみたいな人が一気に持ってきて、それを図書室かどこかでクラスごととか教科ごとに振り分け、そのあとひとりひとりに配られるという光景。そう、教科書は与えられるものじゃなくて、とりに行くものだった。
新しい教科書を手にしたときは、いつの学年のときでも心がときめいた。そこには始業式からの少なくとも1年間の未来(それは少なくとも前日までは知らされていなかった未来)が書き込まれているようだった。3月まで使っていた教科書は表紙は折れているし、ところどころに鉛筆の跡がついている。それはそれで学びの履歴が詰まっているはずなのに、このピカピカした教科書の前では、過去の遺物でしかない。昔使った教科書に愛着を感じるなんてのは、高校を卒業したぐらいのことである。
教科書が配られると、最初に名前を書くように言われる。これは緊張を要する作業であった。この新しい本、自分だけの教科書、目立つ裏表紙の記名に失敗したら、それは輝かしい未来をも失うようなものなのだ。最初に鉛筆で下書きをし、それをサインペンでなぞる。小学校2年生ぐらいまでは「崎」と「希」が書けなくて、「山ざき一き」と記していた。こうして未来は確実に「山ざき一き」くんのものとなる。
教科書との対面で教室が沸いた思い出として覚えているのが、「サザエさん」と「ドラえもん」のことだ。何のことかというと、国語の教科書の中に「サザエさん」が出てきて、社会の教科書の中に「ドラえもん」が載っていたのである。同じ学年のときだったかは覚えていない。「サザエさん」は家族についての挿画で、上巻ではなく下巻に載っていた。この「下巻」というのが結構ポイントで、楽しいことを遠い未来へお預けされたような気分になったものだ。一方、「ドラえもん」は『日本と漫画』という単元の挿画とかではなく、社会の教科書そのもののナビゲーター役だった。つまりすべてのページにタケコプターをつけたのび太とかが出てきて、車の工場の写真とかを見ながら、「うわあ、たくさんの自動車あるね」みたいなセリフを言っているのである。そのワクワク感を今でも覚えているぐらいなのだから、漫画のキャラクターを使って教科書と子どもを近づけようという教科書会社の目論見は、まあまあ成功したといえるだろう。でも残念ながらその賞味期限はあまり長くない。3回目ぐらいの社会の授業では、もう「ドラえもん」はテキストがたくさん書かれたページの一部になってしまった。
しかしまあ、新しい教科書を手にしたこのワクワク感、「山ざき一き」と書いたときに感じる「これは自分のものだ」という宝物のような感覚が、どうして1年経つうちにこうも廃れていってしまうのだろうか。在りし日の自分のパートナーとして、ずっと傍に置いておきたくなるような教科書を作れないもんだろうか、と思うのである。その方策はおそらく、「ドラえもん」ではないはず。
ところでワクワク感といえば、1年生のときにもらった「さんすうセット」もワクワクするものであった。とはいえ、花の形のおはじき以外、何が入っていたかはよく覚えていない。教科書のこともそうだが、均質化した教材を使う学校空間においては「名前を書く」という行為がとても重要になる。したがって、おはじきもひとつひとつ、付属のきわめて小さな白いシール(おはじきの真ん中の穴を避けるわけだから、それ相当の小ささである)に、厄介なことに「やまざきかずき」という7文字の平仮名で名前を書いて貼らなくてはならない。しかもおはじきは無数といっていいぐらいたくさん入っているのである。母が愚痴をこぼしながら名前を書いていたのが思い出される。
でもこうして書いているうちに考えたことだが、親の傍らで「名前を書いてもらう」という光景を目にし、いつしかそれを「名前を書く」という主体的な行動へと移していく、というその過程には、実はアイデンティティ形成にとって大切な側面があるかも知れない。ピカピカの、宝物のような教科書に名前を書き入れるとき、教科書とともに「名前」も自分のものとなる。だからこそ、その「名前」と密接した教科書に、ずっと愛着をもてるような――自分のアイデンティティと学びとを結び付けてくれるような、そういう教科書や教育をデザインできたらいいよなあ、と思ったりもする。

2011年11月9日水曜日

足に提げた手提げ袋

 小学校1年生といえば、黄色いカバーのかかったピカピカのランドセルを背負って登校する姿を思い浮かべるが、少なくとも最初の数日はまだランドセル登校ではなかった。僕の場合、母がキルト布で作ってくれた手提げ袋を持参していた。後に体操服を入れることになるこの袋は、子どもから見たらサンタクロースの袋ぐらい結構大きく感じるもので、入れ口のところにゴムが縫いこまれ、伸縮するようになっている。柄は白地に恐竜のイラスト。そうだ、僕は恐竜が好きだったんだ。
ただ、この手提げ袋については、「恐竜が好きだったんだ」という牧歌的な思い出よりも、もっと強烈な出来事とともに記憶として刻まれている。恐らく入学式の次の日だったと思うが、1年1組の教室(いや、図書室だったかも知れない)で先生の話を聞いたあと、校庭で全校集会がおこなわれることになった。いろいろ注意事項を告げられた上で、みんなで揃って昇降口へ行き、靴を履き替えて校庭に出る。入学してすぐの頃はまだ「背の順」という概念は教わっていないので、恐らく「名前の順」で整列したのだろう。それは覚えていない。
校長先生の話が始まる。顔の長いS先生という校長先生で、話がとてもおもしろかったように記憶している。僕が小学校にいる間、2年ごとに3人の校長先生に出会うことになったが、1・2年生のときに赴任していたS先生が一番好きだった。校長先生の話を聞きながら、周囲を見渡すうちに、1年生の僕はとても重要なことに気づいた。周りの人たちはみんな手ぶらなのに、僕だけがあの恐竜の手提げ袋を持ってきてしまっていたのだ。
「あれ?先生、手提げ袋を持っていくように言ってなかったっけ?」心の中で焦りはじめる。もはや校長先生の話どころではない。今考えればどうでもいいことに思えるが、周りの人たちが誰も持って来ていないものを自分だけが手にしているという状況、つまり「自分だけ間違った」という事実は、当時の僕にとっては相当辛く、受け容れがたいものだった。なんとかこの状況を切り抜けなければいけない。「お腹が痛い」と言って列から抜け出し、教室に袋を置いてくるか。うーん…でもそれも恥ずかしい。かといって、みんなに「間違っている」と思われるのは絶対に嫌だ。じゃあ、間違ったのではなくて、自分でも気づかずに手提げ袋を持って来てしまったことにすればいい。このようにして、今の僕なら「事故」という言葉をあてるであろうそんな状況を、なんとか作り出そうと努力したのである。
そして当時の僕がとった行動は、手提げ袋を足に引っ掛けるということ。足に引っかけて引きずってきたことにすれば、「間違えたのではなく、気づかずに持って来てしまった」という感じが出せるはずだ。小学校1年生の僕が必死になって考えた解決策だった。そうして実行に出るのだが、手提げ袋を持って軽くしゃがむようにし、取っ手を足に引っかけるという行為を、なるべく周りにバレないように遂行せねばならない。音を立てないようにそーっとその仕草をする。なんとなく2年生の女子が笑っているような気もする。バレたか?でも中途半端な状態にしておくわけにはいかない。なんとか作戦をやり遂げないと…
こうして恐竜の手提げ袋を足に引っ掛けることに成功した。あとはそのまま何食わぬ顔で集会をやり過ごし、終わったあとに、「何か変な感じがすると思ったら、足に手提げ袋が引っかかっていたのか。今気づいたよ」という顔をすればいいんだ。たぶん実際にそうしたと思う。いや、それどころか、わざわざ後ろに立っていた友達にその旨を伝えたかも知れない。とにかく、ほっととした感覚をもったことだけは覚えている。
 そう考えると、「羞恥心」とか「世間体」というものが、必ずしも学校のヒドゥン・カリキュラムだけで形成されているのではなく、小学校に入る前から何かしらの形で身についていたことが分かる(むしろ足に引っかけるということのほうが恥ずかしいのだということを、学校で学んだ)。いずれにせよ、学校の規律と自分の行為との間に折り合いをつけるという、いかにも学校らしい初体験の思い出を、僕はあの手提げ袋の姿かたちとともに記憶しているのである。

2011年11月2日水曜日

小学校の最初の記憶―1990年4月

 小学校の最初の記憶を辿ろうとするとき、「入学式」のことを思い出すのがもっとも手っ取り早いと思うが、がんばってみても何ひとつ思い出せない。ただ、はじめて教室に入ったときに得た感覚のうち、今でもイメージとして覚えているものがある。
僕が通っていた「さくら保育園」は、上野小学校からもっとも近い場所にある保育園で、実際に入学生の7割ぐらいは「さくら保育園」を卒園した子どもたちで占められる。当時校舎は新しくなったばかり。時代は管理教育への反省が学校の建築面に反映された頃だったのだろう、白い壁にパステル調のピンクやブルーが屋根などにあしらわれた、かわいらしい校舎であった。一学年のクラス数は2つ。1年生の教室は昇降口から入って右側だったような気がするが正確には覚えていない。各学年の教室の横には「オープンスペース」と呼ばれるカーペット敷きの空間があり、その境目はアコーディオンカーテンで区切られており、それを取り外すと、オープンスペースの側から1組と2組の両方の教室を見渡せる。まるでシチュエーションコメディのセットのような様相である。もっとも、当時はオープンスペースという言葉を覚えるのにそれなりに時間がかかったし、今考えればその意図も分かる「オープンスペース」の存在についても、当然「めずらしいもの」だという意識はなかった(この「オープンスペース」の話はまた別の機会にちゃんと書いてみたいと思う)。
さて、その教室にはじめて入ったのは、入学式の日だったか…それも自信はない。恐らく保育園で「学校見学」という機会が用意されたろうし、入学式の前にも登校日があったかも知れない。とにかく、そうして初めて入った学校の教室の記憶として未だに僕の中に感覚として残っているのは、広々としたオープンスペースでもブルーの丸い屋根でもなく、机と椅子の「直角」のイメージである。そう、そのイメージは具体的なモノの記憶というより、他人に伝わらないとしても「直角」と表現するのが一番正確であるように感じる。ではいったい、この「直角」のイメージを象っているものは何だろうか?
そう考えながらさらに記憶を辿ると、黒板の上に貼ってあった大きなポスターの絵が頭に浮かんでくる。白黒のイラストだったか、それともカラー写真だったか、それは覚えていないが、そこには机に向かうときの正しい姿勢が描かれていた。机の手前側にできるだけお腹を近づけ、背中をピンと伸ばし、視線をしっかり前に向けて座る。このポスターは相当大きなもの、自分自身の身長と変わらない、あるいはそれより大きいサイズのものとして知覚され、記憶されていることを考えると、相当印象的だったのであろう。このポスターの絵に象徴される「直角」な感じが、実際の教室のイメージとともに、僕にとっての最初の「学校」らしいものとして知覚されるようになった。もちろん、それは嫌悪の対象ではなく、好奇心をもって加わる新しい世界の性格として。
あのポスターは今でも貼られているのだろうか。

学校についての私的な記憶を綴る

 このブログは、僕自身の学校体験のある部分を振り返り、そのとき何を思っていたのか、そして今その出来事をどう捉えるのか、それをできるだけ詳細に書き綴るものである。
現在、仕事をする傍ら、学生として学校教育についての研究をしている。研究のテーマは「『学校観の脱構築』実践の研究―子どものネガティヴな戦略的適応を超えるナラティヴ・アプローチ」というもの。つまり、僕がもっとも関心をもっているのは、自分たちの「学校観」―「学校」をどんなものとして見て、記憶し、語るのか、という問題である。僕たちの「学校観」は、個人の学校体験だけをもとに作られるものではない。たとえば教室に机が並ぶ均質なイメージ、僕たちはそれを学校に行く前から知っていたのではないか。だとすれば、「学校観」は経験に先行して存在し、経験の内容を規定し、そしてその経験と「学校観」が相互作用しながらつくられていく。そして現在の地点からその経験を振り返ろうとするとき、現時点で抱く「学校観」に引きずられるように自分の学校体験が想起され、自分の今の人生に位置づけられ、場合によっては他の人と共有される。
仮説的なこの前提のもと、「学校観」の問題にできる限り当事者性をもって接近する方法があるとすれば、それは僕自身が自分の中の学校の記憶を辿り、そこであったことを書くことを通じて、当時考えていたことを思い出し、さらに今生きている自分の地点から評価する、あるいはそう評価する自分をも相対化してみる―そういう具体的で私的な実践であると考えるようになった。こう書きながらも、大宮町立上野小学校、茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、慶應義塾大学環境情報学部…自分が人生の貴重な時間を過ごした学校での一こまが少しずつ思い出されてくる。それらの多くは他の人にとっては、あるいは自分にとってさえ「些細」なものかも知れない。しかしだからこそ書いておくべきだとも思う。
根っからの筆不精なので、下手するとこの文章だけを書いたまま、しばらく放置される可能性もあるが、こうして宣言し、書く場を得たことをモチベーションに、「学校についての私的な記憶」という個人的な実践を始めよう。