年度が切り替わると新しい教科書が配られる。なんとなく覚えているのは、教科書センターみたいな人が一気に持ってきて、それを図書室かどこかでクラスごととか教科ごとに振り分け、そのあとひとりひとりに配られるという光景。そう、教科書は与えられるものじゃなくて、とりに行くものだった。
新しい教科書を手にしたときは、いつの学年のときでも心がときめいた。そこには始業式からの少なくとも1年間の未来(それは少なくとも前日までは知らされていなかった未来)が書き込まれているようだった。3月まで使っていた教科書は表紙は折れているし、ところどころに鉛筆の跡がついている。それはそれで学びの履歴が詰まっているはずなのに、このピカピカした教科書の前では、過去の遺物でしかない。昔使った教科書に愛着を感じるなんてのは、高校を卒業したぐらいのことである。
教科書が配られると、最初に名前を書くように言われる。これは緊張を要する作業であった。この新しい本、自分だけの教科書、目立つ裏表紙の記名に失敗したら、それは輝かしい未来をも失うようなものなのだ。最初に鉛筆で下書きをし、それをサインペンでなぞる。小学校2年生ぐらいまでは「崎」と「希」が書けなくて、「山ざき一き」と記していた。こうして未来は確実に「山ざき一き」くんのものとなる。
教科書との対面で教室が沸いた思い出として覚えているのが、「サザエさん」と「ドラえもん」のことだ。何のことかというと、国語の教科書の中に「サザエさん」が出てきて、社会の教科書の中に「ドラえもん」が載っていたのである。同じ学年のときだったかは覚えていない。「サザエさん」は家族についての挿画で、上巻ではなく下巻に載っていた。この「下巻」というのが結構ポイントで、楽しいことを遠い未来へお預けされたような気分になったものだ。一方、「ドラえもん」は『日本と漫画』という単元の挿画とかではなく、社会の教科書そのもののナビゲーター役だった。つまりすべてのページにタケコプターをつけたのび太とかが出てきて、車の工場の写真とかを見ながら、「うわあ、たくさんの自動車あるね」みたいなセリフを言っているのである。そのワクワク感を今でも覚えているぐらいなのだから、漫画のキャラクターを使って教科書と子どもを近づけようという教科書会社の目論見は、まあまあ成功したといえるだろう。でも残念ながらその賞味期限はあまり長くない。3回目ぐらいの社会の授業では、もう「ドラえもん」はテキストがたくさん書かれたページの一部になってしまった。
しかしまあ、新しい教科書を手にしたこのワクワク感、「山ざき一き」と書いたときに感じる「これは自分のものだ」という宝物のような感覚が、どうして1年経つうちにこうも廃れていってしまうのだろうか。在りし日の自分のパートナーとして、ずっと傍に置いておきたくなるような教科書を作れないもんだろうか、と思うのである。その方策はおそらく、「ドラえもん」ではないはず。
ところでワクワク感といえば、1年生のときにもらった「さんすうセット」もワクワクするものであった。とはいえ、花の形のおはじき以外、何が入っていたかはよく覚えていない。教科書のこともそうだが、均質化した教材を使う学校空間においては「名前を書く」という行為がとても重要になる。したがって、おはじきもひとつひとつ、付属のきわめて小さな白いシール(おはじきの真ん中の穴を避けるわけだから、それ相当の小ささである)に、厄介なことに「やまざきかずき」という7文字の平仮名で名前を書いて貼らなくてはならない。しかもおはじきは無数といっていいぐらいたくさん入っているのである。母が愚痴をこぼしながら名前を書いていたのが思い出される。
でもこうして書いているうちに考えたことだが、親の傍らで「名前を書いてもらう」という光景を目にし、いつしかそれを「名前を書く」という主体的な行動へと移していく、というその過程には、実はアイデンティティ形成にとって大切な側面があるかも知れない。ピカピカの、宝物のような教科書に名前を書き入れるとき、教科書とともに「名前」も自分のものとなる。だからこそ、その「名前」と密接した教科書に、ずっと愛着をもてるような――自分のアイデンティティと学びとを結び付けてくれるような、そういう教科書や教育をデザインできたらいいよなあ、と思ったりもする。